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備忘録的感想 Sh15uya-シブヤフィフティーン-

 ここは渋谷であって渋谷ではない……

 バーチャルワールドに生きる15歳たち

 Sh15uya ーシブヤフィフティーンー!

 この痛みだけは……現実(リアル)!

 

 

 『Sh15uya(シブヤフィフティーン)』は2005年に放送された深夜特撮テレビドラマ作品。

 平成ライダーでタッグを組んだ白倉伸一郎P、武部直美Pと田崎竜太監督、鈴村展弘監督等平成ライダーでよく見かけるメンツによって手掛けられている作品である。

 また、アクション監督には牙狼シリーズで印象深い横山誠監督が関わっている。そういう意味では牙狼仮面ライダーの合いの子的存在ともいえるかもしれない。(ちなみに横山監督は仮面ライダーTHE FIRST等のアクションにも関わっている。)

 元々それなりに特撮ファンには有名な作品でもあるのだが、TTFC(東映特撮ファンクラブ)等でも配信されており気になっていた作品で、DMMTVが現在東映作品を配信しているおかげで視聴する機会を得られた。

 

 シブヤフィフティーンで印象的なのはまず「仮想空間」という設定だ。

 なんとこの作品、OP時点で「仮想空間で生きる15歳たち」と言い切っている。そう、仮想空間という真実はこの作品にとってはギミックではありながら隠している部分ではない。ここが一つのこの作品の強みであり1クールで駆け抜ける構造の一助となっている。

 仮想空間である前提で作品を見ることで、「あぁ、この変な動きをしているキャラや描写はつまり仮想空間でのNPC(ノンプレイヤーキャラ)なのだな」というのが視聴者に共有されているのだ。

 また、何となく1話や2話の時点での謎の大枠も視聴者には見えている部分があるだろう。

 意外というか、この視聴感が独特で、ではかなり独特な風味のあるシブヤフィフティーンの味で「シブヤ」の世界をどうやって解体していくのだろう?という形で視聴者を引っ張るというのは存外面白かった。

 自分の中ではやはりADV(アドベンチャー)ゲームに近い味と言えるかもしれない。

 

 この作品で魅力的に映る部分が、非常に独特というか前時代的で退廃した雰囲気の映像、汚れた渋谷の描かれ方、そしてそこに生きるティーンたちの描写だ。

 元々こういったかつての不良グループ、チーマーの存在は90年代に存在し、それらが文化的に様々なところで取り入れられていったものでそれらのコンテンツ的源流として印象深いのはやはり「池袋ウエストゲートパーク」と言える(あくまでミーハー的目線というか、大衆的な目線からではあるが)

 自分はこういった時代を反映したような映像の暗さや閉塞感、そして若者の憤りを描く作品の空気が結構好みで、ここにおいてSFとそれらを組み合わせ実写でそれを出力するという意味で非常にシブヤフィフティーンは個性的かつ魅力的な作品だと思える。

 その代償といってはなんだが、とにかくこのドラマは画面が暗い。低予算なドラマであるゆえに、映像を誤魔化している部分もあるのかもしれないが、とにかく画面が暗い。

 ある意味そういう時代の作品っぽいともいえる。しかしながら場合によっては演者の顔もちょっと判断し辛いくらいは画面が暗い。

 しかしそれが本当にこの作品を良い意味で「息苦しい」ものにしていると感じられる。

 生き苦しい渋谷でわけもわからないまま放りだされて異様なノリのヤンキーたちに絡まれ、そしてピースという異常な存在に殺されそうになるヒリヒリとした空気。

 シブヤフィフティーンだからこそ感じられる味だろう。

 そういった方向で個人的に好みな「serial experiments lain」や「ブギーポップは笑わない Boogiepop Phantom」のような画面の暗さ、生き苦しさ、空気。

 これらが好きな人には是非おすすめしたい作品だ。多少映像やCGが粗い部分も個人的には好みな部分だ。

 

 また、この作品でキャッチーな部分といえばやはりヒロインであるエマを演じる新垣結衣さんが「変身」して戦うことだ。

 今となっては「新垣結衣」といえばこのような低予算作品に出演していたのが信じられない有名俳優の一人と言える。

 前述のとおり牙狼の横山誠監督が関わっている結果、牙狼でも活躍したマーク武蔵さん演じるピースとの迫真のアクションシーンが魅力的。

 牙狼の時もマーク武蔵さんがアクションするシーンになると今までにも増して戦闘が猛烈に激しくなって、「なんかアニメで急にアクションシーンで作画が良くなるやつみたいんだな」と思うことが多く、そういった現象がシブヤフィフティーンでも楽しめる。

 そういう意味で個人的にシブヤフィフティーンは「牙狼っぽい」側面も持ち合わせていると言える。

 

 シブヤフィフティーンは常に偽物の世界ではなく、現実に戻ることが作品のメイン目的でありテーマだ。しかし、それだけがこの作品の大切な部分ではない。

 主人公のツヨシにとって、エマを現実に戻す。エマや仲間たちと共に現実に戻る、向き合うことがこの作品にとって大事な部分となっている。

 しかし、ラストでエマは植物人間状態故に実際はシブヤ以外で意識をもって生きることが出来ないという現実にツヨシは向き合うこととなる。

 ではどうやってこの辛いことが待ち受ける現実に立ち向かい、未来に向かっていくのか?

 最終的に物語としてエマはそれらの事実をある程度知りながら、ツヨシと共に現実に戻ることを選択した。「自分から」辛い現実と向き合うという選択、そしてその現実に立ち向かうために寄り添う そういった関係性がこの作品の最終的な着地地点であると自分は思う。

 最終的にこの物語を見て、人によっては「なんだ、結局問題は解決してないじゃないか」と思うかもしれない。

 しかし、エマが「自分という存在を取り戻し」、そして「自ら一歩踏み出す」という自己選択に至ったこと。そしてそれに寄り添う人たちと出会えたことがこの作品の着地であり大きな進展なのだ。

 「内面の革新」と「関係性の広がり」はループで閉じられたシブヤでは得られなかったことを、シブヤに来た当初のエマの経験を通して描かれている。

 この作品が提示する「未来」とはそういうことなんだと自分は思う。