エスケーエイトにおける瞳
エスケーエイト新作アニメ制作決定おめでとう!
というわけでもないけど、エスケーエイトというアニメにおいて非常に重要な表現として存在する『瞳』について以前から書き残して置きたかったので記事にしておこうと思う。(一応ツイッターでも喋ってたけど)
最後まで見てる前提で書き残しているので、まだ見てない人は注意してください。
エスケーエイトにおいて1話から『瞳』については強調的に表現され、作品において非常に重要なポイントとなっている。
エスケーエイト1話はレキの語りから始まり、レキの語りで終わる。
『子供のころ、まだヒーローのテレビとか見てた頃さ、そのヒーローが言ったんだ。お前の幸せはなんだ?って。
何が幸せかわからないまま終わるなんて絶対に嫌だって。でも何が幸せか答えられるやつなんているか?小学校にも入ってないガキに怖いこと言うなって思ったよ。~(中略) …でもどれも俺の幸せじゃない。俺は知ってる、俺の幸せは…』
(SK∞ エスケーエイト第1話 レキのセリフより引用)
レキは既に自身の幸せを知っていると語る。無論、それはこの物語のメインである「スケボー」である。
そして1話のラスト、ランガの花火の中での『雪のシーン』において
『その時、俺は確かに見たんだ。この沖縄に舞う、白い雪を。』
(SK∞ エスケーエイト第1話 レキのセリフより引用)
と語り、そしてその瞳にはランガが映っている。レキが「ランガのスケボー」を瞳に映した瞬間であり、ここで1話はシマるわけである。
ではこのランガの存在は何か? ランガはレキにとっての「スケボー仲間」として、弟子のような立場として、友達として関係が深まっていく。
レキはランガというスケボーを共に楽しむ「幸せ」をこの時見つけたのだ。
みんなでやるから楽しいスケボー、ともに楽しむ相手でありそんなワクワクを生み出すスゴイやつであるランガを。
レキと共にランガの姿を瞳に映し、ランガを追いかける人物となるのが愛之介、愛抱夢である。
愛之介は普段は自身の本当の姿を隠し、エスにおいては自身をさらけ出す形として愛抱夢に変身する。
だが愛抱夢の姿も「本当の愛之介」の姿ではない。一人だけで走るスケボーをする彼もかつては自身の秘書である正にスケボーを教わり、そして笑顔でスケボーを楽しみ、また仲間と共にスケボーを楽しむ過去がある。
しかしあることをきっかけに彼は「自身の幸せ」を見失い、また彼を瞳に映す相手である正の存在も信用できなくなり、自身の幸せを拒絶することとなる。
故に愛抱夢の姿の時、彼は自身の瞳を隠し、一方的な愛を求めている。
そんな彼もレキやランガとの出会いによって運命が変わっていく。
ランガは逆にレキと出会うまで、ある『喪失』を経験している。それによってかつての「楽しさ」、「幸せ」を見失っている。
それは父親の死、楽しかったスノーボードの中での父親の死の経験によって見失ったものである。
愛抱夢がランガに見出したものはスケートボードにおいて自身に追いついてくる潜在能力だけではなく、この『喪失』も同時に存在している(むしろ文脈的にはここの方が大きいのではないか)と自分は考える。
ゾーンの中で、ランガは『自分たちだけの世界』と愛抱夢が語る世界を、かつて自分が父親を失った瞬間と重ねている。
父親という「自分を見てくれる相手」、共に楽しむ相手、幸せ。それを失った瞬間こそがゾーンの文脈として存在している。そして愛抱夢、愛之介もこれと同様に「自分を見てくれる相手」を失った経験こそがゾーンに引きこもろうとする動機の一つと言える。
しかしそんなランガをゾーンから引っ張りだすのは、ランガの『瞳』に映ったレキのカスタマイズしたボードなのだ。
『スケボーは…楽しい!』
(SK∞ エスケーエイト第12話 ランガのセリフより引用)
レキを瞳に映すことでランガは自身の幸せ、「スケボーは楽しい」ことを思い出し、ゾーンから抜け出し、そして愛抱夢さえもゾーンから引っ張りだすのである。
『そっちは楽しくない!』
(SK∞ エスケーエイト第12話 ランガのセリフより引用)
エスケーエイトにおける「瞳」は相互関係による「彼らの持つ幸せ」を示すものであり、同時にそれを見失っており拒絶する愛抱夢の存在を強く引き立たせるものとも言えるだろう。
最終回においてランガは自身が失ったものと同時に、それを埋めたレキという存在を再確認し、自身の幸せに確信を持つ。
そして愛抱夢も、自身の本当の姿を常に見つめ続けていた相手を思い出し瞳を向けるのである。
エスケーエイトのラストは、1話のレキの言葉をランガが踏襲する形で終わる。
「俺には最初何が怖いのかよくわからなかったけど、今はちょっとだけわかるよ。 自分の幸せがわからないってすごく怖いことだって。
でも、俺はもう知ってる。俺の幸せがなにか。俺の幸せは…」
(SK∞ エスケーエイト第12話 ランガのセリフより引用)
ランガが向かう先にはレキが待っている。
エスケーエイトという物語は相互の関係性によって気づくことができた「幸せ」を改めて確認して終わる。 その瞳にはそれを気づかせてくれた相手を映して。
「劇場版 少女歌劇 レヴュースタァライト」感想 ※ネタバレ注意
『少女歌劇レヴュースタァライト』の終幕
書きなぐりなので読みにくかったら申し訳ない。
また、今回は全体の構造やワイルドスクリーンバロック等について書きなぐる形だったので、そこに関連する事柄にしか触れられてない形となっていて自分で見返して少し物足りなく感じつつ今回は留めておきたいと考えてます。
また、見た直後、パンフも買ってない状態でのものなので、なんらかの形でインタビューやら公式とのすれ違いがあったら申し訳ない。
- もう死んでるよ
- ワイルドスクリーンバロック
- 天堂真矢の「貪欲」さ
- キリンの役回り
- 愛城華恋の『ラスボス性』
- 「レヴュースタァライト」の終幕
- 劇場版スタァライトを見ているうえで連想した作品※注意 様々な作品のネタバレを含みます
もう死んでるよ
映画の最初に、大場ななにおける皆殺しのレヴューがワイルドスクリーンバロック大一目として行われた。
もう死んでる、「舞台少女」として、彼女たちは少女として死に そして新たな『舞台』に進んでいかなければならない。その残酷ながらも確実にくる運命に。
大場ななはかつて再演において、彼女たちの残酷な現実の多くを見てきた存在であるゆえにその死を彼女たちに伝える役割であり劇の始まりを告げるキリンとは別の狂言回しとしては最適である。
一度死んでいることを自覚し、そして再誕のために新たな血としてトマトを食べる。
しかしそんな中で、愛城華恋だけは違った。彼女はそのあとも電車に乗り続けている。彼女はまだ死んでいない、いや死ねないのだろうか。
舞台少女としての存在から脱すことができないその理由は映画において本編と並行して描かれていく。
ワイルドスクリーンバロック
劇場版少女歌劇レヴュースタァライトでは、スタァライト本編のレヴューとは違った形の演目として『ワイルドスクリーンバロック』という演目によってレヴューが行われていく。
劇場版ではこのワイルドスクリーンバロックは「観客が求める面白さまで続くレヴュー」といった形で扱われている。
テレビ版におけるレヴューは作中で定められた『ルール』によって進行する。
場所は学校の地下、集められた『舞台少女』は基本的には1対1のルールに則ってお互いの煌めきを舞台上で競い合わせる。そして、舞台上で上掛けを止める『ボタン』を外された側が敗北であるという提示が行われる。
しかしワイルドスクリーンバロックにおいてはこれらのルールの原則は『面白ければ』守られず
ボタンを金メダルとして与えるものや、失われた煌めきを相手の武器を利用して取り戻すもの、ボタンを隠し持つもの…
これらはこの「少女歌劇レヴュースタァライト」における劇場版がそれぞれのキャラクターが『面白さ』を自分たちの舞台に求めた結果なのだと考えられる。
それぞれのキャラクターが自分たちを見つめなおし、その原点に立ち直り、そしてその「スタァライトのキャラクター」という役を自身のアイデンティティとして『再生産(再誕)』させる。 だからこそ、彼女たち自身の感情がむき出しにされ舞台そのものに好き勝手に影響される。最高の舞台 それがスタァライト。それがワイルドスクリーンバロックの構造である。
天堂真矢の「貪欲」さ
作中で大場ななに『死』を与えられず、大場ななと唯一向き合うことができたのは天堂真矢である。
そして彼女はその後の未完成のスタァライト第一稿のシーンで、彼女以外のメインキャラクターがモブキャラクターたちから遠ざかり目立っているのに対して
他の99期生たち、所謂『モブキャラ』の中に混じって次に進むことに前向きな姿が描かれている。
舞台少女という『役回り』である彼女たち以上に自分自身をむき出しにしてあの『世界』に立っている強さを持つ存在が天堂真矢なのだと考える。
天堂真矢とクロディーヌのワイルドスクリーンバロックは作中で最も『力強い』
天堂真矢はクロディーヌに対して、クロディーヌがライバルと自称し追いかけている天堂真矢は『演者』として究極的な存在として空っぽの器であり、その存在を磨き上げるためだけにライバルの存在を肯定したと突きつける。
クロディーヌが追いかけたライバルは、果たしてただの役を行うためだけの器でありそれを磨き上げるためだけにライバルという存在が必要だっただけなのか?
まあそんなわけはないよね…
という形でクロディーヌによって天堂真矢はその貪欲な舞台への執着を突きつけられ、感情をむき出しにする。そしてライバルの存在を肯定する。
天堂真矢やクロディーヌはメタ的な要素以上にあの世界に『立っている』のだ。
だからこそそのキャラクターの存在自体への立ち直り以上にお互いへの言及になっているのだと考える。そしてそれらを完璧に『劇』に仕立て上げてしまっている。
ワイルドスクリーンバロックをあそこまでコントロールしていたのは彼女たちだけなのかもしれない。
キリンの役回り
キリンはテレビ版、ロンドロンドロンド、そして劇場版においても大場ななと同じく狂言回し的立ち位置にいた存在である。
そんなキリンの正体であり役回りが劇場版においては『舞台少女たちの燃料』であり、まさに『少女歌劇レヴュースタァライト』という物語自体の狂言回しだと明かされた。
キリンはあたかも作中ではレヴューを見たいがために少女たちに舞台を用意しそれを楽しむ観客のように振舞っているが(実際、楽しんでいる面も無論存在しているのだろう)、彼こそがこの物語を動かし視聴者に提示する存在であり作中キャラクターを物語に縛り付けつつ解放さえもする役割だ。
だからこそキリンはレヴュースタァライトの作中で燃料として燃え上がり、レヴュースタァライトの作中役者である彼女たちを更に輝かせて散っていった。
そして愛城華恋、もとい神楽ひかりによる「レヴュースタァライトという劇の上に立つこと」が言及できるようになったのではないかと考える。
愛城華恋の『ラスボス性』
愛城華恋はテレビ版において神楽ひかりのいない聖翔では本来の力強さを見せないと提示されていた。
その理由、それは愛城華恋は『レヴュースタァライトにおける作中キャラクター』に完全になり切っていた存在であり、神楽ひかりの関係性のうえでしか成り立たない存在だったからではないかと考えられる。
愛城華恋にはそれ以上の物語が『レヴュースタァライト』の物語上は存在しないのだ。だからこそ神楽ひかりと共にステージに立つという目標のために主人公というポジションには立てても、そこから先のステージを想像できない。
舞台『少女』の存在から抜け出せない。彼女には愛城華恋という役しか存在していない。
作中でそれらを神楽ひかりによって突き付けられ、一度死に、電車に乗せられ、かつての過去を振り返り
そしてそれらを燃やし尽くし今の『愛城華恋』に立ち直ることで神楽ひかりという『ライバル』より上に、新たなステージに進みたいという今の愛城華恋に辿り着くことが出来る。
劇場版スタァライトはキャラクターの再生産、再誕による立ち直りと新たな歩き出しである。その主役でありある意味でラスボス、それが『一生舞台少女』の愛城華恋だったのだろうと考える。
ある意味大場ななが挑んでいたループの果ては彼女だったのかもしれない。
「レヴュースタァライト」の終幕
『そして現在』
歌って踊って奪い合う、スタァライトの物語におけるレヴューのシステムは劇場版にてある意味終わりを告げる。
それはレヴュースタァライトという物語だからこそ成り立つものである。彼女たちはその物語から解き放たれ自分たちのポジションゼロに立ったのだ。
愛城華恋の演じきっちゃった。と共に我々視聴者がみていたレヴュースタァライトは終幕し、そして愛城華恋や99期生達は現在、少女から解き放たれ新たなステージに向かっていく。
自分だけの人生という舞台に立ち続ける者を後押しする、それが「劇場版少女歌劇レヴュースタァライト」なのだ。
劇場版スタァライトを見ているうえで連想した作品※注意 様々な作品のネタバレを含みます
劇場版スタァライトは劇中劇的な物語言及などのメタフィクション性がテレビ版の倍は上がったうえでもう一度あの世界に着地している作品である。
メタフィクションにおいてこういった構造は十八番とも言え、多くの作品を踏まえて連想されるものがある。
少女歌劇レヴュースタァライトにおける「レヴュースタァライト」という劇中劇の構造、少し方向性は違うが、作中でかつてラスボスが行おうとした作中劇を新たな世代が行うことで新たな未来を提示したプリティーリズムディアマイフューチャーにおける『グレイトフルシンフォニア』を思わせる。
最終回ではディアマイフューチャーのキャラクターたちは過去を踏まえて各々の未来に進むことを選択し別れを告げるのが描かれる。
個人的には今作のキリンはMOTHER3の『リダ』を思い出させる。リダはMOTHER3というゲームの舞台が実は劇中劇的設定によってつくられた世界であり、そんな世界の中で唯一その『設定』を知りつつも語らずに世界を俯瞰的に見続けていたキャラクターである。
リダはラスボスによって歪められてしまったMOTHER3の世界で、主人公にその真実を語る唯一の人物となる。そしてその真実を語ることでリダの『役割』は実質的に終わるのである。
ゲームのMOONでは基板によって設定された運命から逃れることができないことを嘆くゲーム内キャラクター、モンスターたちは最終的に主人公がゲームを『やめる』ことでゲームから解き放たれる。
そしてエンディングでは現実の様々な場所に彼らが存在しているかのような画が描かれている。これもまた、フィクションから解き放たれるキャラクターと前に進むことを重ね合わせた構造だ。
それから劇場版仮面ライダージオウOver Quartzerにおけるウォズもキリンの役割に近い。
ウォズはジオウという作品における狂言回しであり作品を俯瞰的に見るキャラクターであるが、ジオウOQにおいてその俯瞰的立場から「平成ライダー」を否定するクォーツァーの立場に回る。
しかし、ウォズは最終的にジオウの主人公である常盤ソウゴを自分自身で選んだ王として祝福し、平成ライダーの歴史を肯定し、そして観客に対して「ご清聴ありがとうございました」と語り自らの持つ本を破り捨てる。
メタの立場を自らの意思で捨てさり、ジオウの世界に足をつけて未来に生きていくことを選ぶ。
OQという作品もメタ表現を用いて過去を踏まえ、今を肯定し、未来に進む物語である。
また近年の作品だとシン・エヴァンゲリオンである。シンエヴァは最終的にエヴァンゲリオンという作中におけるフィクション的存在にさよならを告げることでエヴァンゲリオンのない世界に辿り着く。
これもまたキャラクターたちが新たな未来に進むために前に進むことをメタフィクション的に描いた物語といえる。
庵野秀明監督からの影響を受けていると公言し、幾原邦彦監督の下で働いていた経験もある古川知宏監督は、どうやらご本人のツイッターを見る限り忙しくてシンエヴァを見に行けていなかったみたいなので(どちらにせよ作っているタイミング的にシンエヴァの影響を受けることはないのだが)、近しいに着地したのはめぐりあわせを感じられる。
幼なじみが絶対負けないラブコメ1巻を読んだ
相変わらず備忘録的ですが自分用メモ的にも感想です。
アニメで「幼なじみが絶対負けないラブコメ」を見て気になって1巻を読んでみた感想となります。
・この作品のテーマは「スタートライン」に戻ること
「幼なじみが絶対負けないラブコメ」はそれぞれのキャラが最終的にマイナスを清算し、スタートラインに立ち戻ることが着地点となっている。
主人公の丸末晴は母親の死のトラウマでかつての人気子役の立場から役者の道を捨て、その過去に引きずられつつ現在に至っている。そして初恋の相手である可知白草にフラれたと一方的に思い込み、黒羽の提案から復讐のための計画を起こす。
ヒロインの一人である可知白草は初恋の相手に丸を持ち、かつての丸に裏切られたと思い込み、恋愛感情と同時に今の自分へ振り向かせて「フる」ことで裏切った丸を見返したい復讐心を持ち合わせている。
しかしそんな中で彼女は別の男性と付き合っていると勘違いされた情報が学校に広まってしまい、その誤解をどうにか丸本人が気づいて解くように画策する。
もう一人のヒロインである志田黒羽は丸とは古くから非常に距離感の近い人間であり、丸とは家族のような関係性すら持っている。
しかし、同時に丸を初恋を相手に持ち、物語が始まる前に丸に告白しているが、丸から「フラれて」いる。
黒羽は丸ではない男性を選んだ白草に嫉妬し、丸に白草への復讐を唆すと同時に、自分をフった丸への復讐を もといマルが自分を好きになるように画策している。
それぞれのキャラが、「子役の道をあきらめている」「フラれたと思い込んでいる」「フラれている」
等の「マイナスの要素を持つ状態」からスタートから始まっており、同時にこれらを「清算」することがこの物語の着地点である。
故に丸はクライマックスでかつての子役時代の代名詞であるチャイルドスターを舞台の上で踊り切って子役に立ち戻る。
白草は丸がかつて自分を裏切ったのではなかったのだと知り、そして丸に自分がかつての丸の友達である「シロー」であると告白する。
そして黒羽は丸から告白され、そしてそれを「フる」。
元々この作品のタイトルである「幼なじみが絶対負けないラブコメ」は「幼なじみは負ける法則」をメタってとったものであるが、この1巻のヒロインはお互いの幼なじみである。それは確かに「幼なじみが負けない構造」であるといえるだろう。
しかし同時に「幼なじみが負けない」を更に逆手にとって「幼なじみが勝たない」ラブコメに仕上げる。
この作品は「負ける幼なじみを勝たせる物語」ではなく、「幼なじみが負ける構造をメタった構造」自体をメタ的にギミックに利用した物語であることは明白である。
だからこそこの作品では「幼なじみ」という要素自体を特筆して押し出してはいない。それ以上に「負けない」ことを押し出している。
正直筆者はラブコメを特段読んでいるというわけではないのだが、ラブコメという構造自体へのメタ的な構造はラブコメが好きな人は興味深く感じられるのではないかな…と思う。それが目新しいかどうかは置いといて
・個人的に好きになったキャラの話
幼なじみが絶対負けないラブコメで個人的に気に入ったところの1つは主人公の丸の友達である「甲斐哲彦」である。
幼なじみが絶対負けないラブコメは3人のメインキャラが3角関係でそれぞれの恋愛模様を描くが、その中で狂言回し的なポジションに立っているのが哲彦である。
哲彦は女遊びが好きなイケメンであり、3股をかけたりしているのが既に一度バレた経験等があり女性からの評判はもっぱら悪い。しかしそれを悪びれもせず、主人公の恋愛関係を「面白いから」という理由で手を貸したり引っ掻き回したりする。
しかしその表面的な部分とは裏腹に彼は丸の身を案じ、かつての「子役」としての自信を取り戻してほしい…。
哲彦はこの作品のバランスを取り持つキャラクターであり、この作品のメイン軸となる「復讐」についても「幼稚」と言っていたり、丸に対しても辛らつな言葉を浴びせることで丸本人の「痛々しさ」がちゃんとギャグとして機能するようにしている。
この作品は丸視点で基本的に物語が進むが、読者はどちらかといえば哲郎に感情移入をすることで読み進めやすくなっているのではないかと思える。
彼はクズであり女性にだらしなく、丸に対しても辛辣だ。だからこそラブコメの滑稽さを客観的に見て、また同時にそれぞれのキャラの魅力を引き出すことが出来る立場。1巻においては「負けないキャラクター」なのだ。
もう一人好きなキャラが黒羽である。
主人公の丸の視点からは「容姿もかわいらしく、同時に人間として尊敬できる相手である長い付き合いの幼なじみ」として映っているが、
丸が気づいてない部分として彼女は常に天然な行為を装ったりして丸への独占欲を強調した動きをする。有体に言えば「腹黒」なキャラクターなのであるが、文章での丸視点では、丸が彼女が「腹黒」であると感じ取っているようには見えない。
だからこそ丸は自分が黒羽によって「復讐」に焚きつけられているとは気づいていない。むしろ自分自身がそこは決めたものであると受け取っている。
実際のところは、黒羽は白草への復讐を焚きつけると同時に丸を自分に振り向かせたうえで「フる」ことが目的なのだ。(それは物語のラストで明かされる事実ではあるが)
黒羽は腹黒的行為で丸が困るような行為を行ったりするのだが、丸は基本的に彼女のことを尊敬して真面目に向き合って動いているため、黒羽の行為は読者のストレスになるよりもエンタメに昇華されて、丸が他者と向き合ううえで真面目なキャラクターであることが強調されている。
黒羽はエピローグでの阿部先輩と哲彦の会話まで客観的に見て腹黒なキャラクターであることは言及されていない。
「そうしないとスタート地点に戻れなかったんだろうね。志田さんにはそういうところあるよね。凄く計算するけど、結構感情的なところがあって、貫徹できないっていうか」
出展:幼なじみが絶対に負けないラブコメ1巻 192ページ
彼女がこの作品ではギミック的かつエンタメ的に気持ちの良いディスコミュニケーション部分を生み出すキャラクターであり、「スタートラインに立ち戻る」ことの象徴的キャラクターなのだ。
・アニメとの比較
元々アニメから入った身でもあり、色々語ったが割と自分の1巻を読んだ目的はここである。
個人的にアニメと原作とで印象的だった違いを語って見たいと思う。
・告白祭の存在
原作ではプロローグ後に告白祭についての言及から物語が始まる。告白祭は文化祭の目玉イベントとして注目されており、おさまけにおいてはこの告白祭にイベントが収束していく作りになっている。
アニメで正直告白祭本体が始まった時は「え?後夜祭みたいなやつがメインなんだ…」と少し驚いてしまった。告白祭自体がセリフや映像で一応提示されるものの、視聴者としてはあまり印象的でないと同時に、文化祭のイベントとして提示されているため本命は「文化祭である」と思い込んでしまっていた。
1話の段階で告白祭はポスターによって提示されているものの、幼なじみが絶対負けないラブコメという作品を知らない人間からするとそこの部分がややわかりにくい提示だったのではないかと思う。
アニメでは基本的にキャラのセリフや映像での提示はよほど強調しなければ滑って流れて行ってしまうのだ。
・丸のトラウマについての示唆
原作において、丸が子役を辞めたことについて具体的に初めて触れられるのは阿部先輩との最初の会話である。
阿部先輩は丸が芸能界から引退したことについて触れ、その理由についてを問いただす過程で丸に対して「逃げた」という発言をする。
丸は自身が役者を辞めた理由についてを勝手に憶測を立てた発言をする阿部先輩に対して憤慨し、ここで初めて暴力的な行為に出る。
アニメではここの会話では丸が引退したこと以上に、白草との関係性についての話をメインに据えた会話となっている。丸本人は重大なトラウマを抉られるようなことはない。
丸がどれだけ役者であったことを引きずっているのかということに関しては2話でそのことについて明かされるまでは強く言及されないのだ。
ここは個人的に丸本人の掘り下げとしては細かい部分ではあるが印象が変わる部分ではないかなと思った。
・某ダンスについて
ダンスについて原作で触れられるのは白草の過去回想である。丸が演じたドラマのエンディングにて、ドラマの主人公の未来の姿の象徴としての「ニューくんダンス」が代名詞として流行したことが語られている。
その後、告白祭にて丸が乱入する際にダンスの詳しい説明が語られている形となっており、単純にやはりここでダンスすることに関しては違和感のない作りとなっている。
しかし、アニメではそもそもダンスまでの導線が非常に弱いといえる。
・白草の回想でドラマのダンスについて触れられないため、そもそもダンス自体が丸の子役としての存在と結びつかない。
・原作では黒羽は演技について「2つ」アドバイスをしているのだが、このうち1つがカットされていることによって「丸が2段階で変身することで演技を可能にする」という文脈が存在しないので、何故丸がダンスするシーンが演技に繋がるのかわからない。
・丸が舞台に立つまえに「2段階で変身する」シーンがないため、哲彦が客観的に見て丸が変化したことを提示するシーンも存在せず、演技とラストシーンのダンスが結び付かない。
等、とにかく丸がかつて人気子役であったこととチャイルドスターのダンスが悉く結びつかなくなってしまっている。
ここまでしっかりとカットされているということはそういった判断が行われたということなのだが、それにしてもわかりにくいというかそもそもわからなくなってしまっている。
ダンスの振り付けや作画がどうこうとは別ベクトルにも問題があった部分であると思う。
この中ではやはりダンスと演技の話についての文脈が結びついてないのは致命的なのではないかと思う。
反省会的な内容になってしまったが、アニメとの比較としては想像以上にアニメで抜けてしまった文脈が多かったとわかったのは1視聴者として少し残念な事実である。
しかしアニメのおかげでこの作品の原作に触れるきっかけとなったとも言え、決して良い出来であるとは言い切れないがアニメを見て良かったと自分は思う。
原作1巻以後を買っていくかはわからないが、今後も出来る限りアニメの視聴を続けていきたい。
GWに漫画版クウガを読んだ 感想
GWに漫画版クウガが全話無料ということで、読んでみた感想です。
自分用のメモ的も兼ねたような形の記事として書かせていただいてますので、かなり読みにくくて申し訳ありません。
・漫画版における『戦士』の概念
漫画版クウガで気になったポイントとして、五代雄介の『戦士』としての強さが度々言及される部分である。
漫画版の五代雄介は、人並みに精神的に傷つき、また人並みに他者を尊み、人並みに社会に馴染める人物である。そしてそれと同時に「他者を守るために戦うことを選ぶことが出来る人物」として描かれている。
作中ではそんな五代の存在を多方面のキャラクターの目線から強く評価している。
一条薫は五代を一人の人間として評価し、また自分が守られる側となることに悩み、五代の隣に立ち共に戦うことを目指すような特撮版の一条薫と根幹は似通った形の立場にある。
特撮版と違うポイントは、一条薫がG3ユニットの装着員となり、五代に立ち並ぶ『戦士』となることだ。
駿河徹也は漫画版のオリジナルキャラクターである。傭兵として各国を渡り歩き、「自分にとって楽しいもの」を優先する彼の目線から見て五代雄介という存在は『強さを持つ戦士』であり、自分の弟子のような立場である津上翔一を五代雄介のような戦士に育てあげようとしている。
彼は五代雄介の『戦士』としての強さを明確に評価している人物であるといえる。
津上翔一は元々は仮面ライダーアギトの主人公であるが、漫画版仮面ライダークウガではアギト本編とも全く異なる実質的なオリジナルキャラクターとして登場する。
様々な『弱さ』を抱え、戦闘においても精神面においても未熟である津上翔一は五代雄介の存在を「優しく能天気な人物」と若干表面的に捉えており、後の事件においても騙されやすい人物であると評価している。
これらの要素の対比によって漫画版においては際立って「五代雄介」の強さが表現されている。
五代雄介は決して能天気なだけの人物ではなく、精神的に大きな打撃があっても自身でそこに決着をつけることができ、そして戦闘面においても優れており、そしてそれらを踏まえて彼の中には本物の「やさしさ」が存在している。
漫画版では様々な特撮版と違うポイントが存在するが、五代雄介に限っては非常に特撮版の「五代雄介」を意識したものになっていると感じられる。
自分としてはこれらを踏まえて、漫画版仮面ライダークウガは客観的に見た『仮面ライダークウガ』という作品自体の強さを再解釈する作風であると感じられた。
・漫画版クウガにおける津上翔一
漫画版における津上翔一は「戦士ではない存在」である。
彼は精神的に不安定であり、物語序盤では姉の事件では自殺未遂に至り、師匠(?)のような立場の駿河からも度々その弱さを指摘される。
彼は明確に五代雄介の戦士性の対比キャラといえる。五代雄介は多くの悲劇が彼に降りかかっても、彼自身の強さはそう簡単には揺るがない。
しかし、そんな彼を津上翔一は「守る対象であり、自分に守られたからこそその存在を保てている」と見なす。
津上翔一が戦う理由の多くは個人の感情に寄り添う場面が多い。自らの近しい人を傷つけられたからであったり、駿河の影響によってであったり、五代のためであったり…。
それらの行動の多くは津上本人が自身の心を守ろうとする「防衛」にも見える。そしてそれらは決して五代雄介によって確立されている概念である『戦士』とは真逆のものだ。
しかし同時にそれらの人間としての弱さがこの漫画における津上翔一というキャラクターの魅力であることは否定しようがない事実である。
これらの戦士の要素のネガ的な部分を持つと同時に、津上翔一は特撮版の津上翔一とも対比的なキャラと言えるだろう。
漫画版の津上は序盤の時点で生きることへの希望を失っており、前述の通り自殺未遂に至っている。「痛み」や「苦しみ」、「怒り」…様々な負の感情を持たざるを得ない事態が彼には多く襲い掛かり、それらを踏まえて彼は存在し続けている。
それらは特撮版において、生きることを肯定する「強さ」を持ちあわせる芯の強さを持つ津上翔一とは対照的だ。太陽のような特撮版と比較するとまるで影のような存在であるといえるだろう。
彼は戦士ではなく、人間の弱さを抱え それでも「アギト」の力を持つことで生きることを強要されているといえるだろう。
津上翔一で描かれるものがどうなっていくのかは今後の漫画版仮面ライダークウガにおいて注目したいポイントだ。
・漫画版クウガから見るヒーロー性
ヒーローとは何かというのは、度々話題になっては苛烈な喧嘩になりかけない危ない話題の一つである。
特に「仮面ライダークウガ」という作品は仮面ライダーにおいてそこに踏み込んだ作品であり、今でも多く語られる元となる作品であるといえる。
そんな仮面ライダークウガをある意味俯瞰的に見たこの作品は、『戦士』というヒーロー性を強く主張する作品であるといえる。
『戦士』は、力をたとえ持ったとしてもそれを悪戯に使わず、他者を守ることに重きを置き、そこには自身のアイデンティティ以上に、他者を尊ぶ価値観が存在している。
そしてこれらと同時に本人の精神性は間違いなく一般人であり、力を持つことに内心怯えることもあれば、精神的に傷つき悩むこともあり、 そしてそのうえで自らが戦う理由に何らかの形で確実な答えを持っている。
それははっきり言って矛盾を抱えた存在であり、仮にそんな人間がいたとして現実的に考えればこれらを両立するならば精神的に壊れてしまうのではないかと思う。
だからこそ、そういった「ヒーロー性」が成り立つのはきっとフィクションの中だからこそではないかと考える。
漫画版クウガにおいて、一条薫の代名詞的なものであり、五代を後押しするものとして『正眼の構え』という概念が出てくる。
「恐怖 怒り 憎しみ… そんな感情に心を乱さず闘志を内に秘める平常心」
後にこの概念はG3という機械に身を委ね一体となることでその内なる闘志をそのままダイレクトに戦闘に体現する「一条薫が仮面ライダーG3となる」ことに繋がっていく。
それはまさに作中における「戦士」の概念を人工的に成り立たせるものである。
片手落ちになってしまうが、漫画版クウガにおいてこの「戦士」の対比キャラとして駿河哲也や津上翔一がどういった形で描かれていくか
また既にそのおおよそは描かれているともいえ、それは過去の井上作品の多くのキャラクターとも類似している欲望や感情に実直なキャラ性から出される「ヒーロー性」である。
井上作品の方向性を与えることによってより「クウガ」の強い掘り下げを行う漫画版クウガはそういった視点で非常に興味深いうえに、やはり井上敏樹という人物の経歴を踏まえても面白い作品であると思う。
・率直な漫画の好きなポイントや感想
最後に、この漫画版クウガのあんまりよくないところなのだが 正直今回の一気読みのような形でないと非常に読むのが辛い作品な気がしてならないところである。
今後どのような展開になるんだ!?というワクワクよりもキャラクター同士のいざこざや負荷の大きいものが展開されるので、これを期間を開けて読む形だと滅入ってしまいそうだ。
一気読みだからこそテンポよく読み進められたが、ある程度の話数を重ねてようやく不和が解決されたり、作中の人間関係が進展したりと長く読むのは少々厳しい気がしてしまった。
しかしだからこそ節目節目でのカタルシスがしっかりきまっており、読んでいてぐっとくる見開きページや、特に漫画版クウガの見どころと言えばカラーページである。
要所要所に挟まるカラーページでの心情表現とクウガの『色』はこの漫画だからこそ、ならではの良さで個人的に一番好きな部分だ。
今まで追いかけられてなかったし、無料だから読めたという部分は大きいが今回読めて非常に良かったと思う。
2020年 印象に残ったアニメのCMを振り返る
テレビで映像作品を見る人間にとって本編とは別に印象的なもの、それは「私たちのブルーレイが発売だよ!」と白々しく発表するブルーレイDVDのCM そして放送中、または放送予定のアニメのCMである。
アニメや特撮のCMは視聴者に大体15秒の間で印象を残すために、必要な情報やBGMを簡潔に提示し、そして過ぎ去っていく
2020年、コロナ禍の中でも多くのアニメがCMを流し 視聴者に情報を届け、時にはネタにされ親しまれた。
そんな今年のCMの中から個人的に印象に残るCMを振り返ろうと思う。
個人的な範囲のものなのでアニメと特撮ばっかになっていることについてはご了承いただきたい
- ダーウィンズゲーム
- アルテ
- 痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
- 恋する小惑星(アステロイド)
- 牙狼VERSUS ROAD
- 劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス
- 魔法科高校の劣等生 来訪者編
- ご注文はうさぎですか?BLOOM
- 番外編 GIBIATE
ダーウィンズゲーム
なんなんだよこのふざけたゲームは…!
普通の高校生である「スドウカナメ」が能力者デスゲームに巻き込まれていくという、ダーウィンズゲームのブルーレイ&DVDのCMである。
「なんなんだよこのふざけたゲームは…!」
「俺はこんなゲームで殺されるのはごめんだ!」
「勝てばいいんだよ」
等、印象に残るセリフが主題歌と共にテンポよく繰り出される内容とCM本数の多さ(個人的観測)で強く印象に残るCMとなった。
アニメ本編でも殺し合いを推奨するようなデスゲームの内容に視聴者にも「なんなんだよこのふざけたゲームは…!」と共感を持って実況で呟かれていた。
また、実際にゲームをプレイしている時や、他のアニメでのデスゲームが行われる場合にも有用なセリフであり、バトルロワイアル系のデスゲームが「ふざけたゲーム」とセリフから引用されて呼ばれる場合もあった。
「ダーウィンズゲーム ブルーレイ&DVD 第一巻 3月25日発売。」
アルテ
公式でテレビ版CMが公開されていなかったため、近い内容であるPV第2弾のリンクとなっております。
私……職人に…… なるんだ!
アルテは16世紀のイタリアを舞台に、貴族の娘であるアルテが女性の権利が認められていない時代の本流に逆らい、自らのなりたい職業である画家を目指す少女、アルテの物語を描く作品である。
主人公のアルテによる「職人になる」という強い決意が印象的なCMであり、これもCMの本数が当時は多かったため、「私……職人に…… なるんだ!」という決意表明を何度も聞かされることとなった。
バックに流れる主題歌の『クローバー』も印象的であり、サビの歌詞だけ妙に憶えちゃってるみたいな曲になっている人も少なくないのでは。
「自分の道は、自分で切り開かないと!」
痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
サリーじゃなくて犬だったかぁ~!
痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います。
は、VRMMO初心者の本条楓がゲーム内で『メイプル』というキャラクターとなり、本来推奨されないプレイングである「防御力極振り」を行う等の奇想天外なプレイングスタイルを行ってオンラインゲームを楽しむ日常や、ゲーム内での他キャラクターとの関係性を描く作品である。
サリーとはメイプルのリアルでの友人である「白峰理沙」のゲーム内ネームであり、メイプルをVRMMOに誘ったのも彼女である。
作中でも主人公と最も関わりが強いと言って過言ではないキャラクターだが、CMにおいてメイプルはサリーに対して散々ブルーレイについての説明を行った後に
「サリーじゃなくて犬だったか~!」
という意味不明な勘違いをしている姿が描かれ、視聴者にインパクトを残した。一部視聴者には『サリ犬』と略され親しまれた。
実際作中でのメイプルは所々天然で間の抜けているキャラクターであることが描かれており、同時に本来ゲームの想定しないプレイを行って最終的に化け物のような姿に変身するなど 視聴者からは「ラスボス」と揶揄され恐れられるキャラクター性を持ち合わせている。
よってCMでの描写は非常に「彼女らしい」姿であると言え、本編を見た後に違った形で楽しめる意味でも面白いCMであるといえるのではなかろうか。
「防振り、ブルーレイ&DVD第一巻が3月25日に発売するみたい! ってサリー?聞いてる?」
恋する小惑星(アステロイド)
週刊!小惑星を探せ!
違うよみら!
恋する小惑星(アステロイド)は、主人公の木ノ幡みらが高校の地学部を舞台に、かつて「小惑星を見つける」という約束をした相手である真中あおや、地学部の仲間と共に夢を追いかける青春を描く作品である。
CMでは小気味良いセリフ回しによってブルーレイ&DVDと特典の説明がメインキャラクター二人によって簡潔に行われる15秒を満遍なく使ったCMである。
「週刊!小惑星を探せ!」「違うよみら!」
のやりとりは非常に汎用性が高く、様々な場面で使えるため他のCMと合算して使われた。
個人的には「付録は~?」がすき
「付録は~?」
牙狼VERSUS ROAD
テレビ版のCMのロングバージョンとなっています。
突然届いたのは VR型のオンラインデスゲーム
GARO-VERSUSROAD(ガロ バーサスロード)はVR(仮想現実)をテーマにした牙狼シリーズの最新作(2020年12月時点)。VRゲーム内のデスゲームで生き残り、黄金の鎧「ガロ」を手にした者は願いが叶うというゲーム内容にプレイヤーたちは醜いデスゲームを繰り広げていく…。
CMでは今までの牙狼シリーズとは少し異なる雰囲気や、VERSUS ROADにおける新しい『牙狼の鎧』の姿が描かれ、作品における悪役らしき人物のセリフを含めて非常に気になる内容となっている。
当時令和2年における特撮の大手の中では最新の特撮作品であったとも言え、その頃同時期に話題になっていたウルトラマンタイガのCMと共に話題(ネタ)にされていた。
また、前述のダーウィンズゲームの次クールに放送されたのもあって デスゲームの内容を示唆して「なんなんだよこのふざけたゲームは…!」と実況されていた。
「お前たちの陰我で、牙狼を満たせ。」
劇場版ウルトラマンタイガ ニュージェネクライマックス
テレビ版のCMのロングバージョンとなっています。
闇に堕ちた タロウ
劇場版ウルトラマンタイガニュージェネクライマックスは2020年に地上波にて放送していたウルトラマンのシリーズの一つであり、ウルトラマンタロウの息子が主人公として活躍する「ウルトラマンタイガ」の劇場版のCMである。
本CMではタイガの父親であるタロウが
『闇に堕ちた タロウ』
と紹介され息子にヤクザキックを決め込む姿や、相変わらず本編に引き続き黒幕となって登場しているトレギアが『最悪な黒幕 トレギア』と紹介される等 当時からシュールなポイントが話題になっていた。
また、過去のニュージェネレーションと呼ばれるウルトラマンギンガから始まるウルトラシリーズのメインキャストたちが集結する姿がピックアップされており、まさに「ニュージェネレーション」のクライマックスであるといえる映画の売りが強く押し出されたCMとなっている。
本来今作は2020年3月6日公開だった予定だが、コロナの影響によってずれ込んでしまい2020年8月7日公開となった。
そのためYoutubeの動画でもわざわざ主役のタイガが「みんな待たせたな!」とメッセージを送る内容となっている。
これによって去年の12月頃からなんと4か月にも渡って同CMが流され 特に印象的な『闇に堕ちた タロウ』のせいで「4か月闇堕ちし続けているタ ロ ウ」や「お父さんを助けにいくよ(4か月かかってやっと)」等、非常にネタにされていた。
これらによって非常に印象的なCMとなってしまったうえでテンポよくセリフが展開される内容となっており、その結果
「待っていたよぉ!我が友よ…」
「やはり黒幕は貴様か!」
「いこうぜ~!」
「俺色に染め上げろ!」
等の一連の流れ全体もネタにされることとなった。
「俺たちは一歩も引かない!」
タイガの物語 ここに終結
余談であるが、ニュージェネクライマックスのブルーレイ&DVDのCMも存在しており、こちらではニュージェネクライマックスにおける見どころを「ここがクライマックス!」と要点をまとめてわかりやすく紹介してくれる。
尚、闇に堕ちたタロウも
「ここもクライマックス! 闇に堕ちてしまったウルトラマンタロウ…」
と紹介されている
「ブルーレイDVD、12月24日発売!」
魔法科高校の劣等生 来訪者編
TV版のCMは公式で公開されていないため、近い内容であるPV第2弾のリンクとなっています。
達也、何故劣等生のフリなんてしてるの?
魔法科高校の劣等生は「魔法」と呼ばれる超能力的な力が研究、開発され普及した現実とは異なる近未来を舞台にし、主人公「司波達也」(通称お兄様)やその妹「司波深雪」の学園生活を描く作品である。
上記は魔法科高校の劣等生の新作、来訪者編CMでの「アンジェリーナ・クドウ・シールズ」(通称リーナ)のセリフである。
「達也、何故劣等生のフリなんてしてるの?」というセリフは
本編を見ているとまるで劣等生のフリなんてしてるようには見えないし、まるで劣等生としては扱われていないお兄様の活躍を1期テレビアニメで見ている人間からするとあまりにも面白い発言となっており、非常にインパクトが強いものとなっている。
無論、司波達也が何故劣等生として扱われいるかについては本編1期にて描写があるのでまだ見ていない人は本編視聴によって司波達也の伝説を目撃することをお勧めする。
また、恐らくは1期を見たことのない人間にとっては魔法科高校の劣等生という作品における「劣等生」というタイトルの印象を与えつつ、「劣等生のフリをしている」という部分に踏み込んでくる新キャラクターであり「来訪者」であるリーナの存在を印象的にしているCMと言えるだろう。
司波兄妹
VS
USNA最強魔法師
ご注文はうさぎですか?BLOOM
みんな!ブルーな日もブルーレイを見たら笑顔がブルームだよ!
ちゃんと伝えてください。
ご注文はうさぎですか?(通称ごちうさ)は
「木組みの家と石畳の街」に引っ越してきたココア(保登心愛)と、ココアの下宿先であるラビットハウスの店員であり一人娘のチノ(香風智乃)やその関係者たちの人間関係や日常を描く作品である。
ご注文はうさぎですかBLOOMはごちうさのアニメ最新作となっており、今CMはそのブルーレイDVDの発売予告CMとなっている。
メインキャラクターであるココアとチノが作中のようなやりとりでブルーレイDVDと特典の宣伝をしており
こういったCMのテンプレである
「私たちの活躍がブルーレイになりました」
を拝むことができる。
「チノちゃんも大活躍!私のおさがり着たり~ 制服着たり~」
「それは伝えなくていいです。」
番外編 GIBIATE
神崎仙水…ブルーレイを購入しに参る!
GIBIATE(ジビエート)は2018年に青木良によって立ち上げられたクロスメディア企画であり、日本の著名なクリエイターが多く参加して作り上げ世界に向けて発信するプロジェクトとなっている。
主人公の侍「神崎仙水」は1600年から2030年にタイムスリップし、感染した人間を「ジビエ」という怪物にしてしまうジビエウイルスが流行したために荒廃の一途を辿る日本において、
ともにタイムスリップした忍者である「真田兼六」や、2030年の現代人である「舩田キャスリーン」達と共に旅をするゾンビパニックもの等に近い内容の作品である。
この作品は2020年の夏に放映された作品でありdアニメストア等でも視聴が可能であるが、非常に残念なことにブルーレイやDVDのCMが存在しておらず、そもそも当時のCMといえばアニメのCMではなく協賛企業であるルミカのCMだけであった。
世界を彩る……光の舞ッ!
このアニメにより普段見ているアニメのCMで
「ブルーレイ、DVDの発売が決定だよ!」という明らかに最初から決まっていた内容を喜び報告するキャラクターなどのCMの内容は決して「当たり前のことではない」ということを痛感させられた。
ちなみにブルーレイボックスは完全受注生産での発売が決定している。
「おいみんな!俺たちのブルーレイが発売決定だってよ!」
「ぶるぅれい…とは また面妖な……」
「この円盤に俺たちの活躍が詰め込まれているらしいぜ!」
「ブルーレイ…受注しに参る!」