「劇場版 少女歌劇 レヴュースタァライト」感想 ※ネタバレ注意
『少女歌劇レヴュースタァライト』の終幕
書きなぐりなので読みにくかったら申し訳ない。
また、今回は全体の構造やワイルドスクリーンバロック等について書きなぐる形だったので、そこに関連する事柄にしか触れられてない形となっていて自分で見返して少し物足りなく感じつつ今回は留めておきたいと考えてます。
また、見た直後、パンフも買ってない状態でのものなので、なんらかの形でインタビューやら公式とのすれ違いがあったら申し訳ない。
- もう死んでるよ
- ワイルドスクリーンバロック
- 天堂真矢の「貪欲」さ
- キリンの役回り
- 愛城華恋の『ラスボス性』
- 「レヴュースタァライト」の終幕
- 劇場版スタァライトを見ているうえで連想した作品※注意 様々な作品のネタバレを含みます
もう死んでるよ
映画の最初に、大場ななにおける皆殺しのレヴューがワイルドスクリーンバロック大一目として行われた。
もう死んでる、「舞台少女」として、彼女たちは少女として死に そして新たな『舞台』に進んでいかなければならない。その残酷ながらも確実にくる運命に。
大場ななはかつて再演において、彼女たちの残酷な現実の多くを見てきた存在であるゆえにその死を彼女たちに伝える役割であり劇の始まりを告げるキリンとは別の狂言回しとしては最適である。
一度死んでいることを自覚し、そして再誕のために新たな血としてトマトを食べる。
しかしそんな中で、愛城華恋だけは違った。彼女はそのあとも電車に乗り続けている。彼女はまだ死んでいない、いや死ねないのだろうか。
舞台少女としての存在から脱すことができないその理由は映画において本編と並行して描かれていく。
ワイルドスクリーンバロック
劇場版少女歌劇レヴュースタァライトでは、スタァライト本編のレヴューとは違った形の演目として『ワイルドスクリーンバロック』という演目によってレヴューが行われていく。
劇場版ではこのワイルドスクリーンバロックは「観客が求める面白さまで続くレヴュー」といった形で扱われている。
テレビ版におけるレヴューは作中で定められた『ルール』によって進行する。
場所は学校の地下、集められた『舞台少女』は基本的には1対1のルールに則ってお互いの煌めきを舞台上で競い合わせる。そして、舞台上で上掛けを止める『ボタン』を外された側が敗北であるという提示が行われる。
しかしワイルドスクリーンバロックにおいてはこれらのルールの原則は『面白ければ』守られず
ボタンを金メダルとして与えるものや、失われた煌めきを相手の武器を利用して取り戻すもの、ボタンを隠し持つもの…
これらはこの「少女歌劇レヴュースタァライト」における劇場版がそれぞれのキャラクターが『面白さ』を自分たちの舞台に求めた結果なのだと考えられる。
それぞれのキャラクターが自分たちを見つめなおし、その原点に立ち直り、そしてその「スタァライトのキャラクター」という役を自身のアイデンティティとして『再生産(再誕)』させる。 だからこそ、彼女たち自身の感情がむき出しにされ舞台そのものに好き勝手に影響される。最高の舞台 それがスタァライト。それがワイルドスクリーンバロックの構造である。
天堂真矢の「貪欲」さ
作中で大場ななに『死』を与えられず、大場ななと唯一向き合うことができたのは天堂真矢である。
そして彼女はその後の未完成のスタァライト第一稿のシーンで、彼女以外のメインキャラクターがモブキャラクターたちから遠ざかり目立っているのに対して
他の99期生たち、所謂『モブキャラ』の中に混じって次に進むことに前向きな姿が描かれている。
舞台少女という『役回り』である彼女たち以上に自分自身をむき出しにしてあの『世界』に立っている強さを持つ存在が天堂真矢なのだと考える。
天堂真矢とクロディーヌのワイルドスクリーンバロックは作中で最も『力強い』
天堂真矢はクロディーヌに対して、クロディーヌがライバルと自称し追いかけている天堂真矢は『演者』として究極的な存在として空っぽの器であり、その存在を磨き上げるためだけにライバルの存在を肯定したと突きつける。
クロディーヌが追いかけたライバルは、果たしてただの役を行うためだけの器でありそれを磨き上げるためだけにライバルという存在が必要だっただけなのか?
まあそんなわけはないよね…
という形でクロディーヌによって天堂真矢はその貪欲な舞台への執着を突きつけられ、感情をむき出しにする。そしてライバルの存在を肯定する。
天堂真矢やクロディーヌはメタ的な要素以上にあの世界に『立っている』のだ。
だからこそそのキャラクターの存在自体への立ち直り以上にお互いへの言及になっているのだと考える。そしてそれらを完璧に『劇』に仕立て上げてしまっている。
ワイルドスクリーンバロックをあそこまでコントロールしていたのは彼女たちだけなのかもしれない。
キリンの役回り
キリンはテレビ版、ロンドロンドロンド、そして劇場版においても大場ななと同じく狂言回し的立ち位置にいた存在である。
そんなキリンの正体であり役回りが劇場版においては『舞台少女たちの燃料』であり、まさに『少女歌劇レヴュースタァライト』という物語自体の狂言回しだと明かされた。
キリンはあたかも作中ではレヴューを見たいがために少女たちに舞台を用意しそれを楽しむ観客のように振舞っているが(実際、楽しんでいる面も無論存在しているのだろう)、彼こそがこの物語を動かし視聴者に提示する存在であり作中キャラクターを物語に縛り付けつつ解放さえもする役割だ。
だからこそキリンはレヴュースタァライトの作中で燃料として燃え上がり、レヴュースタァライトの作中役者である彼女たちを更に輝かせて散っていった。
そして愛城華恋、もとい神楽ひかりによる「レヴュースタァライトという劇の上に立つこと」が言及できるようになったのではないかと考える。
愛城華恋の『ラスボス性』
愛城華恋はテレビ版において神楽ひかりのいない聖翔では本来の力強さを見せないと提示されていた。
その理由、それは愛城華恋は『レヴュースタァライトにおける作中キャラクター』に完全になり切っていた存在であり、神楽ひかりの関係性のうえでしか成り立たない存在だったからではないかと考えられる。
愛城華恋にはそれ以上の物語が『レヴュースタァライト』の物語上は存在しないのだ。だからこそ神楽ひかりと共にステージに立つという目標のために主人公というポジションには立てても、そこから先のステージを想像できない。
舞台『少女』の存在から抜け出せない。彼女には愛城華恋という役しか存在していない。
作中でそれらを神楽ひかりによって突き付けられ、一度死に、電車に乗せられ、かつての過去を振り返り
そしてそれらを燃やし尽くし今の『愛城華恋』に立ち直ることで神楽ひかりという『ライバル』より上に、新たなステージに進みたいという今の愛城華恋に辿り着くことが出来る。
劇場版スタァライトはキャラクターの再生産、再誕による立ち直りと新たな歩き出しである。その主役でありある意味でラスボス、それが『一生舞台少女』の愛城華恋だったのだろうと考える。
ある意味大場ななが挑んでいたループの果ては彼女だったのかもしれない。
「レヴュースタァライト」の終幕
『そして現在』
歌って踊って奪い合う、スタァライトの物語におけるレヴューのシステムは劇場版にてある意味終わりを告げる。
それはレヴュースタァライトという物語だからこそ成り立つものである。彼女たちはその物語から解き放たれ自分たちのポジションゼロに立ったのだ。
愛城華恋の演じきっちゃった。と共に我々視聴者がみていたレヴュースタァライトは終幕し、そして愛城華恋や99期生達は現在、少女から解き放たれ新たなステージに向かっていく。
自分だけの人生という舞台に立ち続ける者を後押しする、それが「劇場版少女歌劇レヴュースタァライト」なのだ。
劇場版スタァライトを見ているうえで連想した作品※注意 様々な作品のネタバレを含みます
劇場版スタァライトは劇中劇的な物語言及などのメタフィクション性がテレビ版の倍は上がったうえでもう一度あの世界に着地している作品である。
メタフィクションにおいてこういった構造は十八番とも言え、多くの作品を踏まえて連想されるものがある。
少女歌劇レヴュースタァライトにおける「レヴュースタァライト」という劇中劇の構造、少し方向性は違うが、作中でかつてラスボスが行おうとした作中劇を新たな世代が行うことで新たな未来を提示したプリティーリズムディアマイフューチャーにおける『グレイトフルシンフォニア』を思わせる。
最終回ではディアマイフューチャーのキャラクターたちは過去を踏まえて各々の未来に進むことを選択し別れを告げるのが描かれる。
個人的には今作のキリンはMOTHER3の『リダ』を思い出させる。リダはMOTHER3というゲームの舞台が実は劇中劇的設定によってつくられた世界であり、そんな世界の中で唯一その『設定』を知りつつも語らずに世界を俯瞰的に見続けていたキャラクターである。
リダはラスボスによって歪められてしまったMOTHER3の世界で、主人公にその真実を語る唯一の人物となる。そしてその真実を語ることでリダの『役割』は実質的に終わるのである。
ゲームのMOONでは基板によって設定された運命から逃れることができないことを嘆くゲーム内キャラクター、モンスターたちは最終的に主人公がゲームを『やめる』ことでゲームから解き放たれる。
そしてエンディングでは現実の様々な場所に彼らが存在しているかのような画が描かれている。これもまた、フィクションから解き放たれるキャラクターと前に進むことを重ね合わせた構造だ。
それから劇場版仮面ライダージオウOver Quartzerにおけるウォズもキリンの役割に近い。
ウォズはジオウという作品における狂言回しであり作品を俯瞰的に見るキャラクターであるが、ジオウOQにおいてその俯瞰的立場から「平成ライダー」を否定するクォーツァーの立場に回る。
しかし、ウォズは最終的にジオウの主人公である常盤ソウゴを自分自身で選んだ王として祝福し、平成ライダーの歴史を肯定し、そして観客に対して「ご清聴ありがとうございました」と語り自らの持つ本を破り捨てる。
メタの立場を自らの意思で捨てさり、ジオウの世界に足をつけて未来に生きていくことを選ぶ。
OQという作品もメタ表現を用いて過去を踏まえ、今を肯定し、未来に進む物語である。
また近年の作品だとシン・エヴァンゲリオンである。シンエヴァは最終的にエヴァンゲリオンという作中におけるフィクション的存在にさよならを告げることでエヴァンゲリオンのない世界に辿り着く。
これもまたキャラクターたちが新たな未来に進むために前に進むことをメタフィクション的に描いた物語といえる。
庵野秀明監督からの影響を受けていると公言し、幾原邦彦監督の下で働いていた経験もある古川知宏監督は、どうやらご本人のツイッターを見る限り忙しくてシンエヴァを見に行けていなかったみたいなので(どちらにせよ作っているタイミング的にシンエヴァの影響を受けることはないのだが)、近しいに着地したのはめぐりあわせを感じられる。