竜とそばかすの姫見た
竜とそばかすの姫を見てきたんで感想です。
パンフレットとかインタビュー一切読んだりしてないので、そういうところで作り手の発言との差異等があるかもですが、そこらへんをご承知いただければ幸いです。
また、ストーリー部分にはまあまあ触れるので、まだ見てない人やネタバレが気になる人は気を付けてください。
大体のあらすじ
主人公の鈴は田舎で育った普通の女子高生だが、幼い頃に母親を亡くしたショックで人前で歌うことができなくなってしまった。
しかし仮想世界「U」に出会い、そこで自分のアバターである「ベル」になることで、現実では歌えなかった歌を歌えるようになれた。だが、鈴の想定以上にベルは大人気になり、仮想世界での知名度が高まっていく。
そんなところにUで悪質なバトルを行うということで、Uの秩序を乱すとして嫌われる「リュウ」と出会い、鈴は何らかのシンパシーを感じリュウに惹かれていく…。
他者と繋がることの可能性の話
まずこの作品のメインとなる鈴は、母親が自分以外の子供を助けるために川に飛び込んだ結果、その子供は助かったが母親を失ったトラウマを持つ。
鈴はこれのせいで、1人自分を置いて行った母親の愛情に疑問を持ち、しかし子供のころの記憶で確かに母親の愛情を感じていた鈴は両面的に苦しむ呪いを背負っている。
要するにこの呪いが作中における「リュウ」とのシンパシーとなり、仮想世界で見も知らない相手との関係性のきっかけとなる。
リュウの正体は母親を亡くし、父親に虐待される兄弟の兄であった。
リュウもまた、呪いを背負っていると同時に、鈴以上に過酷な現状に晒されながら、弟のためにUでの「リュウ」としての姿を見せるために戦っていた。
鈴はリュウの事情を知り、リュウを救いたいと思った時に、母親が何故死の危険を顧みず自分を置いて見も知らぬ子供を助けにいったのか。それを理解するのである。
鈴はリュウの元に辿り着き、リュウと弟を守るために虐待を行う二人の父親の前に立ち、父親を退ける。
そしてリュウは鈴(ベル)と出会い、勇気を貰い、そして自分自身も目の前の現実に立ち向かっていくことを鈴に告げる。
仮にUという仮想空間がなければ、この二人は出会うことがなかっただろうし、そして映画のような結末に辿り着くこともなかったと思う。
不特定多数の人間が繋がることができるインターネットでの美談等は大体無下にあしらわれたり、冷笑的な態度をとられることが多く、自分もそういった態度の方が多い。
実際にこの映画もインターネットのそういった悪性や冷笑的部分も描いており、ジャスティスというUの世界を自治し、自分たちの意にそぐわないものを「アンベイル(実名晒しみたいなやつ)」することにより排除しようという者等も描いている。
しかし少なくとも「竜とそばかすの姫」はそういった「本来出会うことがないかもしれない相手同士」が繋がれる可能性や、誰かが誰かと出会いその思いや善意に影響されたり行動に移ることなどの、インターネットにおける不特定多数の繋がりの可能性の側面を肯定的に描いている。
この映画自体、そういったものを冷笑的に見る態度へのカウンター的というか、「どんな形であろうとなんらかの影響を与え、そして誰もが何らかの形で行動に移すこと自体は無意味ではない」と語ってくれている映画なんじゃないかと思う。
自分自身そういった善意の全肯定みたいなものをそこまで肯定的には捉えられない人間なのだが、フィクションとして、また作品としてそう描いた一貫性を個人的には好意的かつ肯定的に捉えたいと思った。
仮想世界「U」は「誰もが新しい自分になれる、さあ始めよう、そして世界を変えよう(ほぼうろ覚え)」みたいなことを冒頭とラストで語っており、
文字通り鈴はベルという自分を経て新しい自分となり、リュウという他者の世界を変えた。今はもう「泣き虫の元の鈴」ではないし、リュウと弟も『1人』ではない。
同じように、この作品自体がこれを見た人間にとっての「U」となり得るのかもなと。
どんな形であろうと、それが否定的であろうと好意的に受け取られたのであろうと映画、アニメ、音楽、文章、そういったメディアや他者との関りは誰かの世界を変え得るものなのだろうと。
映画の構成的な話
仮想世界(異世界)と現実世界の並走とリンクは今までの細田作品でも描かれてきたものだが、竜とそばかすの姫は作劇として仮想世界をおとぎ話風に描いたのは個人的には新鮮だった。
竜とそばかすの姫における仮想世界ターンはまるで歌劇や演劇かのような言い回しで物語が進み、元ネタであろう美女と野獣がごとく妖精(AI)が出てきたりする。
それに対して、現実世界ターンは女子高生の素朴な悩みや学校内での女子高生ネットワークによる恋愛絡みの面倒くさいSNS炎上やら、何か親近感があるリアリティを持たせつつ描かれる。
しかしこの両方は完全に別々の世界の話ではなく、鈴にとっては密接につながった世界であり、だからこそこのギャップが逆に光っていると思うみたいな…(ふわふわした発言)
またそれを交互に見せつつ、最終的には二つの世界が交差するのだが、その結果として描かれるのはあくまで「個人と個人が出会う」ことなのである。
『世界が大きく変わった』以上に、だれか他者の世界を変えたこと、そして変わったことに物語が収束するのが個人的に非常に気持ちが良い。
しっかりと最初のUの売り文句に物語が戻ってくる。ちゃんと物語が言いたいところに帰ってくるのがロジカル的に『ちゃんとしている』な~!という形でまあまあ飲み込みやすめの構成ではあったなと思っている。
映像方面の話
まずちょいちょい「うわー良いなー」と思う画が先の予告とかであったりして、ツイッターとかでも話題になったりしていたのだけど、個人的に見る前は「U」の描写をそこまで好き!とは思っていなかった。
まぁウォーゲームやらサマーウォーズやらとかでも既にこういうの見たし、個人的にはバケモノの子とかおおかみこどもの方が色合いの使い方は好きだな… みたいな。
あとキャラデザとかも「ディズニーかな?」とか思っていたら作品がかなり美女と野獣で、明らかにまんまなシーンも入ってくるので「ディズニーじゃねえか!」みたいになって最初はそこまで好きじゃなかったなという。
でもそのうえで、この映画自体の良さとして好きになったポイントとして、「仮想世界の美しさ」と「現実の美しさ」のコントラストがある。仮想世界と現実、セットだからこその『良さ』だ。
竜とそばかすの姫の仮想世界はほんとにゲームのコンセプトアートみたいな美しさで、公式ホームページでは「美しくも残酷な仮想世界」とか書かれているのだけど、多少わざとらしい無機質さを感じるところがあるのに対比して、現実世界の田舎的な風景の数々、蒸し暑そうな空気感や、川辺の情景、ショボい駅、積乱雲、そういったものが本当に妙に気持ちよく印象に残った。
こういうのはやっぱり細田守監督の十八番というべきか、何気ない日常での日本の風景が仮想世界の目が痛い程の美しさと交互に出されることでより特別なモノとなっているように感じられた。
それはアバターにも言えて、とにかく鈴の作中アバターである「ベル」は煌びやかすぎて目が痛いくらいのデザインで、ディズニーキャラのようなデザインはちょっと個人的にバタ臭いくらいの気持ちが出ちゃうところなのだが、鈴とベルが同じキャラクターであり、そして同じ声で喋り歌うだけでギャップの良さが出る。
こんなのは当然ではあるくらいのベタさだが、細田守作品の「女子高生」の描き方がディズニーキャラ的デザインのベルと本当に『比』がすごくて、ここは細田作品の良さが仮想世界との差異ですごく良い感じに出た部分だと思う。
同じく仮想世界(電脳世界?)を要素として使ったぼくらのウォーゲームやサマーウォーズにはなかったアプローチだったので良かったと思う。
それから、クライマックス近くで鈴が自分のアバターを脱ぎ、自ら自身の姿で歌うシーンは鈴というただの女子高生が明らかにそぐわない仮想世界で一人立ち、歌うというのをめちゃくちゃ良いライティングで映像に仕上げていて、「これこれ~!!!!!!」ってめちゃくちゃアガった。
まさに仮想世界と現実世界が交わる瞬間を最高の画で仕上げてお出ししている。
細田守監督作品のそういうところが好きなんだよ!というのが今回も見れたので映画館で見てよかった… って思う。
仮想世界モノとしての竜とそばかすの姫の話
仮想世界といえば最近「究極進化したフルダイブRPGが現実よりもクソゲーだったら」が仮想世界作品の近年の第一人者的作品(?)な「ソードアートオンライン」の再放送と並んでTOKYOMXで放送されて一部で話題となったが、
なんと竜とそばかすの姫、SAOの世界式アバターシステム(アバターが自動生成されて自分では好きに作れないタイプのシステム)だったので驚いた。
今時の仮想世界ネタで…アバターを自分で作れない!?(結構そういう作品はある)
また、竜とそばかすの姫はなんとマウントディスプレイ型でもゲーミングチェア型ではなく、耳にイヤホンみたいなのをつけて仮想世界にダイブするようなのであった。(オーグマーが一番近いのかな?)
なんかあんなちっちゃいので体とかの特徴の読み取りや視覚とかもそれだけで仮想世界にアレコレできるみたいですごい。
なんか見ている限りだとあの世界には茅場晶彦のような根源的破滅技術特異点は存在しないっぽいので安心である。そうであってほしい。
というか鈴は集合写真から自分のキャラを作っているっぽいのだが、割と体を直接モーフィングする割にはそこは雑なんすね…みたいな感じもあった。
もしかしたらそういう感じで実質的に好みの形にキャラメイクしてる人もいるのかもしれない。キャンセルもできるみたいだし。
仮想世界のマウントディスプレイやらそういうデバイスを見たらまず「脳を焼き切られるのではないか」とか「記憶を盗られるのではないか」とか「フラクトライトを加速させたりするのではないか」と心配にさせるという形で自分にとってのVRモノの価値観を変えたSAOはやはり偉大だねキリトくん。
あとどうでもいいけど途中で出てきたオメガモン風の女の人のアバターとかヒロちゃんのアバターは結構エッチだなって思った。
面倒くさいまとめ
正直この映画はメッセージ性がまあまあ強く、そしてそれなりに「ストレス」を視聴者にかけてくるタイプの作品なので、見てる人によっては「なんだよ…全然楽しくないぜ…こんなゲーム…」「俺はもうログアウトする…」みたいになってもおかしくない気はするし、そしてそれをある程度わかっててやってる作品でもあると思う。
更に言うと面倒くさいタイプの人らに何かを言われたりだとか、問題視される可能性もあるところにちょっと足を突っ込んでいて、そこのシーンとかはかなり「視聴者側を見てる」気がして、わきが甘めながらもまあまあバランスをとって出されてる作品のはず…!と思います。(児童相談所関連批判みたいなシーンが前々作品やらとかを経てまた入ってくるのは強い意志を感じられる)